ベルリンの中心地からおよそ電車で20分ほど離れたところにあるリヒターフェルデという地区は、19世紀から20世紀初頭にかけて建てられた邸宅が今も数多く残る住宅地です。
昔からの石畳の道路やガス灯も残るこの地域は、プロイセン時代のドイツの発展、豊かさを今も偲ぶことのできる場所であり、当時の様々なスタイルの建築物を見るために、ベルリンの街中から足を伸ばすに足る場所と言えます。
今では比較的年配の方々や小さな子供のいる若い家族が多く住むこの地域はしかし、私たちが歴史の授業でも習うプロイセンの富国強兵のメッカであり、ナチスの軍国主義ともゆかりの深い場所でした。
ナチスの時代のドイツの歴史についてはまだ知られていないこと、明らかになっていないことが数多くあると言われていますが、この地域の美しい建築物と景色だけをみている限り、このあたりがドイツの暗い歴史とゆかりのある地域であることを知らずに通り過ぎたとしても、不思議ではありません。
士官学校の歴史
今日、リヒターフェルデウェスト駅からおよそ30分ほど美しい邸宅が立ち並ぶ住宅街を歩いたところに、ドイツ連邦公文書館があります。
大きな木々と塀に囲まれたこの敷地は元々、プロイセン時代の有名な士官学校があった場所でした。1873年9月1日、学校の建設工事が始まった時には当時の皇帝ヴィルヘルム1世が立ち会ったということからも、この学校が当時のドイツにとって重要な意味を持っていたことが伺えます。
教室、職務室だけにとどまらず、二つの教会、病院、体育館、食堂、寮なども併設するこの士官学校はその後5年かけて建設されます。
この士官学校は、当時富国強兵、鉄血政策をうたっていたプロイセンにとっての重要な教育施設となり、リヒターフェルデという地名は瞬く間にエリート軍国教育を指し示す語となりました。
多くの将校貴族が子息にここの士官学校で教育を受けさせるために、リヒターフェルデの地に住まうようになり、その後何世代にもわたりドイツの軍国主義を支える教育の拠点となりました。
第一次世界大戦ではここの卒業生の多くが戦場で命を落としたと言われています。そのエリート軍国教育との深い結びつきから、第一次世界大戦終結後、ベルサイユ条約において学校の閉鎖を求められ、1920年3月20日、40年以上に渡る学校の歴史に幕を閉じます。
その後、1933年ヒトラーが政権を取ってからはナチスの司令部がこの士官学校の建物の中に置かれるようになりましたが、第二次大戦後、アメリカ軍によって士官学校の建物は取り壊され、現在のドイツ連邦公文書館がここに設立されます。
現在のリヒターフェルデ
そのような暗い過去を持つリヒターフェルデ地区ですが、この地域一帯に今も数多く残る100年以上も前に建てられた建築物の数々は見応えがあり、ベルリン市内の中でもとりわけ美しい景観が今も保たれている地域と言えます。
観光案内などで紹介されることはないようですが、ベルリンのベル・エポックに思いを巡らすことのできる場所です。
この地域に存在する数少ないカフェの一つが、Kaffeehaus Frau Luskeで、リヒターフェルデウェスト駅からまっすぐに伸びる道を10分ほど歩いた場所にあります。
目の前の公園で子供達が遊んでいるのを眺めながら外のテラスで犬と一緒にくつろいだり、お茶したりする人々でいつも賑わっているこのカフェは、朝9時から夜11時まで営業していて、ドリンク、ケーキ、軽食などを楽しむことができます。
様々な矛盾や歴史の積み重ねで一筋縄では語ることのできないベルリンですが、カフェでゆっくりお茶をしながら友人と語ったり考えを巡らすゆとりがあり、それらがまた日々前向きに生きるエネルギーの源になっているように思えます。